You`s 中岡のコラム

自分に向き合うということ by You`s共同代表 中岡静香

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

私は10代後半から約5年間、引きこもりだった。
高校に馴染めず、特定の男子生徒からのいじめ、女子派閥、そして思春期の多感な時期に様々な感情を味わった。

今思うと、よく高校まで学校に行けていたと思う。小学校の頃から、学校というものが本当は嫌いだった。
明確ないじめのようなものはなかったが、何かストレスを感じていた。ただ高校まで行けたのは、成績が割とよかったのはあったと思う。

幼いころから勉強をしなさいと親によく言われていた。どうしても公文式に行きたくなくて車に閉じこもって泣きじゃくり、親に叱られながら通った記憶がある。
その反動からか、強制して「やりなさい。」と言われたものは、今までことごとくうまくいかなかった。

だからか大人になって自分で決めた選択は、それなりに、現在進行形で進んでいるのかもしれない。仕事、資格試験、起業など。

ともかく、高校の頃不登校で引きこもりになった私は、親が描いていた子供の未来像を壊し、どう扱ってよいかわからない“ハレモノ”の扱いになってしまったのだった。

ちなみに、私は音楽が幼いころから好きだった。幼稚園のお遊戯会でピアノを任されて以来、あの白と黒の鍵盤を音に合わせて自由に奏でることが大好きになった。なので私は好きな音楽を演奏するのは好きだったが、指の練習のためにつまらない音楽を練習するのは苦痛だった。

高校2年の夏から学校へ行けなくなり、一度教室へ入れなくなると、どうしても足が向かなかった。明確な出来事はなかったが、色々なことが合わさって心が限界になっていたのだろうと今は思う。
ただ、そのまま行かなくなっていても高校は義務教育ではないので、卒業ができないのだ。そのうち担任より単位の話を言われるようになる。頭ではわかっているのに教室に行けない私。そんな私を数少ない友人は連絡をくれてくるように促してくれた。

それなのに、どこかに甘えがあったのかもしれないが、行けなかった。
そのうち、一時的に違う学校に行くことになった。それが養護学校だった。
私はここで色んな人に出会った。つまり障害を持った生徒、家庭に色んな事情がある生徒、色々だった。年齢もバラバラだった。

私は小学校からいわゆる“普通”という枠にいる中でしか生きてこなかったので、出会った人々が新鮮だった。ただ共通して言えることは、皆、目がとっても綺麗だった。心はもしかしたらいわゆる普通の学生よりも大人で、色んなことを見えていて、それも込みで子供らしく、大人たちに対して振舞える子供がいた。精神ははるかに成熟していて、それは今思えば、私たちが経験すること以上に苦労があり、その上で人に対して優しく接せられる子が多かったのかもしれないと思う。

高校3年生になる前に、前の学校に戻れるチャンスが来た。その時、今までの友達が待っていてくれてたら帰れるかもと期待を寄せていた。
ところが、友人からの返信は、「もう、クラスは結束が固まっている。」というようなものだった。つまり私に帰る場所はないというようなメールだった。

それは今思うと大きな「ショック」だった。甘えもあるが、待っていてくれているとどこかで期待していたのだ。それが「裏切られた」と思った時だった。
このころから、人を本当に信用することが怖くなった。

そしてそのまま養護学校を卒業し、一度東京の音楽学部がある大学を受験したが失敗した。
そして浪人生活に入るが、私の心はずっと死んだままだったように思う。
「無気力」でずっと寝ていた。寝ても寝ても眠くて、寝すぎる私が何かの病気なんじゃと思った母親が、睡眠外来のある病院に連れて行った。そこで色んな精密検査をされたが特に異常はなかった。

余談だが、私は子供の頃【思春期早発症】という病気を幼稚園の頃から発症した。いわゆる思春期、生理などが普通の人よりも早く来てしまい、色々な心身のホルモンバランスなどに支障をきたすという病気だったと思う。小さいころなのでなんで分かったかは忘れたが、私は月に1回、国立の医大病院へ点滴と精密検査を受けに行くことが必須になった。これは恐らく6歳~14歳までは続いたと思う。特に小さい頃は、手に点滴の針を刺されて沢山の薬の液体を流され、血液を採られ、MRIなどに入らなければいけないことは、怖くて苦痛だった。ただ、父親がたまにアイスをご馳走してくれることが少しの楽しみだった。

話は浪人の頃、つまり18歳ぐらいに戻る。
寝ても寝ても眠いのは20歳ぐらいまで続いた。そのころの私はインターネットに依存気味だったし、勉強をしても集中力は続かず、塾にも行けず、音楽も途中でやめてしまった。
そして19歳の頃、高校生の頃の友人で卒業した後も一度手紙をくれた子のmixiを見つけた。そこには大学生活を楽しく過ごしていることが書かれていた。
私は涙があふれてきた。自分は何をしているんだろう。私ってなんで生きてるんだろう。なんでこんなに違うんだろうと涙が出てきた。
また、妹が秘密で書いたブログも見つけて、私のせいで家庭がおかしくなった。あいつのせいだと書かれていたものを見つけた。ショックだったが私はどうしようもない存在なんだなと思った。

そんな私も、どこかでどうにかしなきゃと思ったのか、なんとか大学を受験した。
合格した大学、私は大して興味はなかった。ただこの家から出て行かなきゃと思った。
そして上京した。

上京した私は、なかなか大学に馴染めなかった。浪人して少し年齢が上なのもあるし、まず方言が抜けないで標準語がたどたどしくしか話せなかったのだ。

そんな中、先程のmixiで見つけた昔の友人に連絡をしてみた。彼女は大学で手話サークルに入っていた。手話をしていたのは彼女は生まれつき耳が不自由だったのもあると思う。ただ彼女は輝いていてとても強い子だった。
彼女は私からの連絡に快く返信をしてくれて、彼女に会いに行くことになった。
思えば彼女が私が前の学校を辞めてずっと心に留めておいてくれた唯一の友人だったように思う。

手話っておもしろいかもと思った私は、自分の通っている大学で「手話部」というものを発見し、見学に行ってみた。ただ、入るかどうかは決めかねていた。
私はずっと心に重しがあった状態で、サークルなどに入ることが本当は怖かったのかもしれない。

サークルは最初はなかなか馴染めかった。
そもそも私は人との関わりを約5年もほぼ絶っていたのだから。
本当の自分を出すということも出来なくなっていたように思う。ちなみにこれは大人になってからもわからなくなっていた。しかしようやくこれを書けるようになってきたので、やっと整理がついて自分に向き合えるようになったように思う。

そんな中、大学で、こんなこじらせまくっている私に、真剣に向き合ってくれる同級生の男の子に出会った。
私が養護学校に行ったこと、浪人したこと、その他の苦労とかを話した時に、笑わないでいてくれた。またそういうことがあったからちょっと年齢違うけど、今上京して出会えたと言ってくれた。彼と接して色んな感情を思いだした。だから喜怒哀楽をぶつけてしまい、未熟すぎて傷つけてしまったことが多くあった。私は今思うと、信用することもされることも怖かったんだと思う。
ただ、彼との出会いで、死んでいた私の人生に光が指したように思う。“生き返った”のだ。

逆に言うと彼以外にはやはり心は開けなかった。自分を出せなかった。
まだトラウマが強く自分の人生への劣等感から抜け出せてなかったのだと思う。

大学を卒業してからの10年間は、本当に仕事と勉強が中心だった。なんとか生きていかないと思い頑張った。
お金が稼げなくなると田舎に帰らざるを得なくなる。一度帰ると二度と出てこれないと思っていたので、何とか生きていかないと思った。
必死だった。20代後半で同世代の人が結婚やデートなどをしているときも、仕事と資格の勉強を頑張った。私は自分がやろうと決めたことを一度も達成できていない人生だと思っていた。だから今度こそは自分で一度決めた目標を叶えたいと思った。その結果が社労士の合格だったのだ。

社労士を目指したのも、結局は”人“のことに興味があるからなのだと思う。
余談だが最近は社労士の枠を超え、人の在り方や福祉について探求したいと思っている。

2019年に開業し、2021年に会社を設立した。
開業して以来、本当に色々な人の助けに合った。こんな私と真剣に向き合ってくれ、私が本当にやりたいと思うことを引き出してくれる助けをしてくれた。

自分に向き合えるように、ようやくなってきた。
過去も少しづつ整理ができるようになった。

私はたまたま人の出会いに恵まれたのだ。
あのまま田舎にいたら、もしかしたら今私はいなかったかもしれない。
自分はあの時、本当にどうしようもないと思った。変えたいと思った。それが行動になり
出会いとなり、今に至るのだと思う。

自分ひとりで家にいても何も始まらない。
だけど人には色んな可能性やパワーがあると私は思う。

そんな苦しんでいて、でも頑張ろうとしている人たちを、私は助けたいと思う。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

コメントを残す

*