スポットライト図書館オフィシャル記事 新原克弥様 2013 年 2 月 18 日
「逆境の先に…」
著者:新原克弥(1983 年 5 月 3 日生)
記者:渡部岳
子供の頃、僕は毎晩かなしばりにあった。
しかも、決まって同じ夢を見た。内容はこうだ。
「不思議の国のアリスに出てくるような大きな草原に一つ扉がある。何か決意をもってその扉を開く。その先は
インディ―・ジョーンズのアドベンチャーの世界。裸足の僕は薄暗闇の中を一生懸命に歩く。岩や人に追いかけ
られたり、やりが飛んできたかと思えば、ヘビがうじゃうじゃ出てきたり…うーーー!!と叫びたくなるほどの
心からの恐怖の連続。最後に一つの扉にたどり着く。恐る恐るその扉を開こうとしたところで、目の前が真っ白
になる。」
夢は決まってそこで終わった。
夢のごとく、僕の半生は逆境の連続だった。
僕の一番古い記憶は 4 歳のこと。
父から虐待を受けていた。大手企業に勤める高卒の父はコンプレックスのかたまりで、仕事のストレスを僕にぶ
ちまけるかのように暴力をふるった。
母と妹と誕生日祝いをしていても「黙れっ!!」と怒鳴り散らされる。ラーメンをすする音で「うるせえっ!!」
と言われ、殴られたり蹴られたり…常にビクビクしていた。
母と父も不仲で、怒鳴り合う毎日。居場所のない僕の心のより所は母が買い与えてくれた「プラレール」と「レ
ゴ」だった。朝から晩までひたすら組み立てて遊び、家の中と自分の中に閉じこもるようになっていった。
小学校では、激しいじめにあった。
自分は精一杯普通にしているつもりなのに、なぜか「汚い!」、「ばい菌!」と言われ、先生からは「この子は
変だ」と差別的な扱いを受けた。クラスだけでなく、学校中から異端視された。
4年生では、投げつけられた石が頭に直撃し、流血。深い傷を負い、入院した。上級生からは裁縫針を指に刺さ
れるなど拷問まがいのことをされた。今になっても消えない傷が体中にある。守ってくれる人がいない、生き地
獄だった。
「なんで自分だけ…」と考える頭もなく、現実を受け止めることに一生懸命だった。
つらいという感情すらよくわからなくなって、処理しきれない感情がひたすら涙となって流れ出た。
家にも学校にも居場所のない逆境の日々だった。それでも、学校には通い続けた。
5年生の時、帰り際に「この、新原あぁー!!」と校門の前で呼びとめられた。ガキ大将が集団を引き連れてこ
ちらに迫ってきて、取り巻きの5人に囲まれた。「うるせえなあ!!」と叫んだ後、頭が真っ白になった。気付
いた時には相手をボコボコにしていた。人生で初めての暴力、何かがプツンと切れた瞬間だった。
次の日から、まわりの接し方が変わった。きれいさっぱりというわけではなかったが、いじめがなくなった。僕
は「変わろう。新しい自分になろう」と決心し、服も髪型も変えた。父からの暴力も次第に無くなり、小学校で
の生活は落ち着いたものになっていった。
スポットライト図書館オフィシャル記事 新原克弥様 2013 年 2 月 18 日
さらに新しい自分を目指し、中学校では、いわゆる「中学校デビュー」をした。会う人会う人に大きい声で「お
はようございます!!」とあいさつし、積極的に友達を作った。悪気はなかったのだが、元気が良すぎて授業中
に騒ぎ過ぎたのが良くなかった。
「アイツ、なめてるよな。」
不良グループに目を付けられた。体育で人のいなくなった教室で、取り囲まれてはボコボコにされた。鍵を閉め
られ、逃げる隙もなかった。またいじめが始まった。逆境だ。
中学2年の秋から不登校になった。「頭が痛い」と仮病を使っては、家に引きこもり、当時流行った「ときメモ」
ばかりやった。フィギュアを集めたり、ポスターを部屋中に貼ったり、オタクの世界にどっぷり浸かった。また
自分の中に閉じこもった。誰が来ても部屋には入れなかった。
3年の担任になった北村先生は様子を見にしょっちゅう足を運んでくれた。そんな中で、猛烈な頭痛に襲われる
ようになった。かき氷を食べた後のキーンとする痛みをもっとずっと激しくしたような痛みだ。病院で精密検査
を受けてもどこにも悪い所はない。最後に回された精神科で、「君は普通ではない。これから先、普通の人のよ
うな生活はできないと思って下さい。」と伝えられた。そんなことは認めたくなかった。心配して来てくれてい
た北村先生は「お前はやればちゃんとできるはずだよ。とにかく必死で勉強しなさい。」一寸の疑いもなく、励
ましてくれた。
それからは必死に勉強した。先生のすすめで高校受験もした。やっとの思いで県内有数の不良高校に合格するこ
とができた。先生は心から祝ってくれた。
高校に入るとまわりは不良ばかり。廊下を暴走族がバイクで走っている。みんなはナイフを持ち、先生は竹刀を
持ち歩いていた。間もなく、強制的に暴走族に入れられた。合言葉は「目が合ったら殺せ」。この言葉を生きて
いくために必要な当たり前の言葉だと思ってしまった僕は、ナイフこそ持たなかったが、バットを持っては暴れ
た。仲間は次々、刑務所に入れられた。
そして、当時流行った「エアマックス狩り」に仲間が手を出し始めた時だった。運の悪い仲間がヤクザを狩ろう
としてしまった。僕の目の前で発砲された。胸を撃たれ即死。目の前の視界がバリバリと音を立てて崩れた。
「一体、何がしたいんだ…」
自問自答した。
何か人のためになることをしなくてはいけない。変わろうと思った。
暴走族から足を洗い、廃部寸前の福祉サークルに入った。この不良高校に福祉サークルが存在したのは奇跡だっ
た。部員は3人。がむしゃらに動き回った。みんなでどんな活動をしてみたいかじっくり話し合い、子ども・障
害者・高齢者・国際交流の4つの分野に分かれて、施設や老人ホーム、社会福祉協議会などに働きかけボランテ
ィアを送り込んだ。初めは、やらされている感が強かった元暴走族の仲間たちも少しずつ人のためになることに
喜びを感じるようになり、仲間が増えていった。気付けば部員は40名近くになっていた。関わった多くの人が
喜んでくれた。地域の新聞やラジオ、全国的なメディアも取材に来て、まわりが変わり始めるのを感じた。
「自分が変わらないと何も変わらないんだ。」
改めて気付いた。小学校の時と変わらず、逆境に立ち向かった僕がそこにいた。
福祉をもっと勉強したくて、大学進学を考え始めた。しかし、高校受験以来、勉強らしい勉強なんて全くしてい
なかった。予備校に通い始めたが、クラスは当然一番下のクラス。僕以外は全員高校一年生だった。
「先生!~ing ってなんですか?」なんて質問をする高校3年生は、笑われ、バカにされた。
ある日の授業で、塾長に言われた。
「勉強は忘れたっていい、だけどこの言葉だけは覚えてくれ。『現状否定』!これから先どんなことがあっても
現状に満足せず、現実を変え続けるんだ!!」
スポットライト図書館オフィシャル記事 新原克弥様 2013 年 2 月 18 日
まわりがぽかんとする中で、僕は1人涙が止まらなかった。死に物狂いで勉強し、1年の浪人を経て、福祉系大
学に合格した。4年間、福祉を通して人と関わり、好きなだけ学べることが幸せだった。
福祉の道の就職を一度は考えたものの、経験の幅を広げるため大手メーカーに就職し、営業職に就いた。コミュ
ニケーションが下手くそで、パソコンの使い方も分からない、営業のノウハウも、ビジネスマナーもさっぱり分
からない逆境だったが、今までの経験に比べて全く大きな問題では無かった。初めはズタボロだった業績もサボ
らず、誠実に働いた結果、全国トップのセールスを記録するまでになった。給料がどんどん上がり天狗になった。
「俺様は仕事ができるんだ!営業のトップなんだ!」鼻高々に思っていた。金にモノを言わせて人を動かした。
でも、地位と名誉と金を手に入れたのに、さびしさしか感じなかった。大きな失敗だった。その後、会社を辞め、
改めて自分を鍛え直すために勉強を始めた。色々なセミナーを受け、学びの場を探し回った。
そこで、「国際ビジネス大学校」という社会勉強の場に出会った。尊敬できる魅力的な先生達から改めて学校と
いう場で学べることが心から楽しかった。学校の授業を受けるうち、自分を変えることで逆境を乗り越えてきた
経験から、多くの人に「自分が変わることで周りをよくできるんだ。」ということを学んで欲しい、みんなが人
生の中で学び続けられる社会をつくりたいという思いをもつようになった。
憎いと思った過去も今はただ感謝している。自分がこうして生きているのも父と母のおかげだと思えるようにな
った。この思いを社会に返していくため、僕はこのある某大学校の実行委員長として仕事を始めた。
幼いころ見ていたあの夢の扉を僕は今、開けようとしているのかもしれない。
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